祥洲流_書の基本
本稿は私が主宰する書塾(墨翔会)での教材用として書き下ろしたものです。
簡単なガイドですが、皆様の練習に少しでもお役に立てれば幸いです。
尚、本項はあくまでも「祥洲流 書の基本」であり、講義での補足説明を前提としております。
2014年晩秋 墨翔庵にて 祥洲 記
※著作権は祥洲にあります。転載・引用は絶対にお止めください
祥洲流_書の基本
書とは
書は筆墨硯紙を用い、文字を書くものであり、
実用性と芸術性を兼ね備えた表現である。
文字はいわば人と人が意思疎通に使用するコミュニケーションツール。
その原点は、遙か昔、地面に石や木を用いて「刻む」という行為にあると想像しています。しかし風が吹けば、雨が降れば、消えてしまったでしょう。
のちに動物の骨や岩肌に刻むようになり保存性を持つようになります。この保存性を持ったことが最も重要な要素だと思っています。
書は文字を書くものです。文字は当然、可読性を持ちます。私が、文字本来の約束を無視し極端な造形を加えた作品を嫌う理由はここにあります。抽象的な表現手段もあるわけですから、文字が文字でなくなるようにするならば、きっぱりと文字を捨ててしまえばいいのです。
書き手が文字を書こうとしていること。この意識を持ち、文字が可読性を保てる範疇で、いわばその束縛の中であえて文字を書くのです。
可読性に関しては、文字本来の造形に基づき多数の人々が認識できると言う意味だけではなく、例えばニジミなどで外形しか見えなくなっても書線とニジミがほんの少しでも判別できれば良いという考え方なども含みます。
そしてこれらに加え、実用性と芸術性…用と美の両立は大変難しいことですが、書が生活の中に生き続けるためにも重要なことでしょう。
また筆墨硯紙に関しては、現代の書における使用素材は多様化しています。私自身も筆墨硯紙以外の素材を用います。デジタル作品も制作します。しかし原点はやはり筆墨硯紙であると考えます。
と、ここまで書いておきながらですが…。
そもそも私は表現のジャンルに縛られたくありません。かつて寺山修司さんは、あなたの職業は何ですか、と問われて、寺山修司です。と答えたそうです。私は自分のことを、「書家」「書道家」です。などと言っていますが、本当は寺山修司さんのように答えたいと思っているのです。少なくとも「芸術家」「アーティスト」と言うだけで良いのでは、とも思っています。
現代という時代の中で様々な新たな表現が生まれるべきです。祥洲語録のコーナーにも書いていますが、古典と呼ばれるものは、それが生まれ出た時代にとってみれば、それまでになかった新しい要素を持った革新的な書だったのです。そして多くの人々に連綿と受け継がれ、今日から見れば、古典と呼ばれるようになったのです。伝統は常に新しい感性を取り込みながら脈々と受け継がれるものであり、スタイルだけの伝承は形骸化するだけなのです。
伝統を継承することなく創造はありません。
そして創造することなく伝統の継承はありません。
※本サイト内の<映像写真音楽>にて「伝統・継承・創造」をテーマにした映像作品を公開中です。
書の伝統を学び、そして愛し、継承していく中で、自由な発想を大切に、ジャンル分けや定義付けに縛られることなく、新たな書のカタチを求めて欲しいと願います。表現は自由なのです。