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祥洲語録

書家は文字を書く。
画家は絵を描く。
写真家は写真を撮る。
ならば書家が絵を描けば、なんと呼ぶ ? 
写真を撮れば、なんと呼ぶ ? 
私はカテゴリーになんか縛られたくない。

                                     祥洲/Shoshu 

本コーナーは中国の書法専門誌「書法賞評」での「現代日本の書」インタビューを中心に加筆再構成したものです。

ピアノは鍵盤を押し込めば音は鳴ります。
しかしそれだけで素晴らしい演奏が出来るわけではありません。
ピアニストになるためにはどれくらい大変な練習が必要か…

書道ではどうなのでしょう。
誰でも筆を手にすれば何かが書けます。
学校教育でも学びます。
少し練習すれば、何となく書けるような気分にもなります。
しかしそれで書家なのでしょうか。

伝統書が書けない書家
実用書が書けない書家

いろんなカタチがあってもいいとは思いますが
しかし…

自らの表現は、伝統を学ぶ中で模索し続けるもの。

現代の書はあくまでも伝統書の延長線上に存在するもの。

人柄を感じるような書、個性溢れる書、それは素晴らしい。
だがあなたがもし書を志す人ならば……
自分らしく書いたと言う前に、
これが自分の個性だと言う前に、
苦しいほど、逃げ出したいほど、古典を学びなさい。

書き出したばかりの途中なのに、紙をくしゃくしゃにして捨ててしまう。
失敗したってまだまだ紙の白い部分は残っているのに。
そんな反古紙の山を築いて悦に入るのはどうかと思います。
「 紙 の 命 は 一 度 限 り 」
紙の命を粗末にしてはいけません。

書に向かうということ
は、

一生をかけて古典を学び続けることです。
そしてどんな時も古典に立ち戻れば、
真摯に謙虚に古典に問いかければ、
独りよがりで低俗な表現にはなりません。

いくら古典を学び、
いくら似せて書くことが出来るようになっても、

それを超えることは出来ません。
しかしそこから新たな書表現を生み出すことは出来ます。
だから書する限り、日々、古典を学ぶ必要があるのです。

書における、用と美。
美ばかり追いかけて、用を忘れる無かれ。
生活に根付いた実用書を軽視してはいけません。 

日々の練習や古典の学習不足による自分の技術の未熟さを

「稚拙さ」と混同しないことです。

古典と呼ばれるものは、それが生まれ出た時代にとってみれば、

それまでの時代になかった新しい要素をもっているものなのです。
言い換えればそれは当時の革新的な書だったのです。
そして多くの人々に連綿と受け継がれ、

今日から見れば、古典と呼ばれるようになったのです。
伝統は常に新しい感性を取り込みながら脈々と受け継がれるもの。
スタイルだけの伝承は形骸化するだけなのです。

伝統を継承することなく創造はありません。
そして創造することなく伝統の継承はありません。

 

書における新たな創造は伝統の全否定ではありません。
伝統の精神性を自己内部に包容し、その上で新たな美を追究するのです。

 

伝統は「継承してくれる人」がいて、初めて伝統となるのです。


書は文字性という束縛を十分認識して、あえて文字を書くものです。
その上でそれらの束縛にとらわれない自分の内面の表出を目指すのです。

- 雑 感 -

ろくに古典も学ばず自分勝手に書いたもの。

それも「書」なのだろうか。
私にはただ筆を使って書いてあるだけにしか見えません。
昨今、巷に氾濫する"書らしきもの"の低俗さにうんざりです。

どのように書こうか、と考えることは必要です。
しかしもっと大切なのは・・・
多くの漢字や言葉がある中で、「何故、それを書くのか」です。

字面(じづら)が良い。書きやすそう。
そんな理由でモチーフにしてはいけません。

また今回も漢詩や名言が集められた本をめくって書く言葉を探すのでしょうか。
日頃から心に響いた言葉を書き留めておきなさい。

展覧会があるから作品を書くのですか。
制作が先にあるべきです。
日々、制作。

実際に書するまでに
何故、この言葉を書くのか、に始まり、
適した筆墨硯紙を選び出し、
仕上げの体裁までを考えなさい。

例えば筆は何種類あるのでしょう。
道具というものはそれに適した使い方があるから多種なのです。
文房四寳…筆墨硯紙に関してもっと学びなさい。

羊毛の筆は書きにくいから使わないという。
もともと筆が悪いのかもしれませんが
大抵は練習が足らないから使えなくて書きにくいのです。

文字は多くの人々が共通して認識できるもの。
人々が認識できないような極端な造形を加えたなら
それは文字ではありません。

よく見聞きするセリフ。
「書は技術ではなく、心が大切」
「気持ちを込めて書く」etc
当たり前のことです。
しかしそれを伝統書が書けない理由にしてはいけません。

練習、練習、練習。
謙虚に、そして真摯に、古典を学び続ける中でしか見えてこないものがあります。

「線質」を置き去りにして
どうしても造形にばかり気をとられる。
根っこが育たないのに、枝振りだけを見ているのと同じ。
そのうち枯れてしまいます。

書は古典やお手本をただ真似るのではなく、自ら考え、学ぶのです。

10枚書く時間があれば、5枚書いて、
残りの5枚を書く時間は、考える時間に使いなさい。

素晴らしい作品をボツにしてしまう方があります。
きっと自分ではまだ気づけていない新たな美の世界だからです。
自分で良いと思うのは既に自分の美の範疇に入っているもの。
これでいいのか迷ったりわからない時は、それを大切に残しなさい。

筆を手にしながら紙を出したり何かをするのはいけません。
筆は、書くその時に手にしなさい。

書き出そうとして、もし迷ったら筆を一度置きなさい。
仕切り直しするのです。

書く、ということは、
紙の上で筆を走らせている時だけではありません。
集中し、筆を手にとって書き始め、
そして書き終えて筆を置くまでと考えなさい。

「書法」を学ぶ。
数年で身につくものと考える人もあり、
何十年も取り組んでいてまだまだと考える人もあり・・・。

人がいくら綺麗な衣装で着飾っても、所詮、見た目だけのこと。
「書」も同じ。
文字の外形だけを美しくしようとするものではありません。

どんなに凄い書を書いた人でも初心者だった頃があるものです。
あきらめず、続ける事が大切です。

練習をあせってはいけません。
そして練習をさぼってもいけません。

児童の書写手本、一般的な実用書、そして漢字や仮名の古典を
まともに書けなくても書家になれるという現代を
喜んでいいのかどうか。

伝統書を基盤に、純粋に芸術としての現代の書を探求する
そんな書家がもっといればいいのに、と思う。
古くさい考えかもしれませんが、ね。

何度伝えても出来ないなら、諦めればいいのかもしれない。

でも私は諦めず更に何度でも伝えます。

臨書は1枚目が最も大切です。

そして1枚目が今の自分の実力だと考えなさい。

作品制作も1枚目が最も大切です。

技術的な完成度より、一期一会を大切にしなさい。

だから仮に失敗だとしても残しておくべきです。

ともかく、、、

下手な鉄砲、数を打っても当たりませんよ。

日頃から1枚の紙の命を生かせるように心技体を鍛えることです。

伝統を継承することなく創造はありません。
そして創造することなく伝統の継承はありません。
伝統・継承・創造

撮影・編集・作曲・演奏など

全て単独制作第1作目 ​(2013)

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